Apr.12.2022

/ 一生モノ

一生に一度、帰りを決めないあてのない放浪の旅に出てみる

パキスタン北部、インダス川の上流にあるパスー村。目の前に海抜7000m近い山々が連なる

究極の“一生モノの旅”とは何かと考えてみると、私の場合は目的も行き先もない「あてのない旅」でした。いや、当初は目的や行き先もあったのですが、旅が長くなるにつれて旅自体が日常化し、もはや旅は目的ではなくなってきたのです。30代の時に行った1年半の世界旅行でしたが、その後の私の人生を大きく変えた旅でもありました。これは私の旅の経験ですが、もしかしたらそれがあなたの“一生モノの旅”のヒントになるかもしれません。

中国、新疆ウイグル自治区のピチャンにある大砂丘

仕事を辞めてあてのない旅に出る

今から約20年前の1995年3月24日、私は横浜から上海行きの客船・蘇州号に乗り込みました。中国に着いたら陸路でヨーロッパに向かい、できたらアフリカ、そして南米にも行きたいぐらいの漠然としたスケジュールです。旅の予算はだいたい1年分。なくなれば帰国するしかありません。気がかりはその数日前に起きた地下鉄サリン事件のことぐらいでした。

1980年代半ば、一浪一留で社会に出た私ですが、当時はそんな若者はザラにいました。バブルよりは少し前ですが、一流企業でなければなんとなく就職できた時代。最初の仕事はテレビの音楽番組の裏方ですが、3年で辞めました。「音楽は好きだけど、裏方は違う」と思ったのです。辞めた後、バックパックの海外ひとり旅を2ヶ月ほどしました。行き先はヨーロッパ。私にとっては刺激的で、海外旅行が猛烈に好きになりました。だから帰国後の就職先に旅行会社を選んだのです。短絡的ですね(笑)。その旅行会社も5年で辞めました。「旅行は好きだが、人の旅行のお世話をしたいわけじゃない」。そこで経験を積みたいこともあり。1、2年かけて貯金をし、旅に出ることにしたのです。

年が明けた1995年は日本にとって大変な年でした。新年早々、阪神・淡路大震災が起き、不良債権問題、オウム事件が続きました。そんな先行き不安な時代、私はあてどない旅に出ることにしたのです。

パキスタン北部、インダス川にかかる吊橋。右の壊れていない方の橋を渡るのだが、それでも隙間だらけで、渡る途中で足がすくんでしまった

中国からクンジュラブ峠を越えてパキスタンへ

上海から中国に上陸し、観光ビザぎりぎりの三ヶ月間、中国を旅しました。中国もまだ経済成長前で物価が安く、1日1000円あれば地方は旅行できました。まずは揚子江沿いに南京へと進み、そこから四川省の重慶まで4泊5日の船旅です。まだ外国人旅行者は珍しかったので、あちこちで質問攻めに遭いましたが、みな親切でした。その後、雲南省の少数民族エリアを回り、成都、西安と北上。最後の一ヶ月は陸路でシルクロードをひたすら西へ向かいました。初めて見る砂漠にも大感動。当時鉄道は途中までしかなく、オンボロバスに乗っての砂漠移動はかなり体にこたえました。中国のほぼ西端の町カシュガルから海抜4693mのクンジュラブ峠を越え、パキスタンのフンザへ。山の村から見る標高7000m級の山々は生まれて初めて見る美しさ。隙間だらけの吊り橋を渡り、死ぬかと思ったことは今でも忘れられません。

インドはあまりにも暑かったので、途中、標高3000m以上のチベット人エリアのラダック地方で過ごした

酷暑のインド、手探りで旅した中央アジア

6月から7月にかけてパキスタンからインドに入りましたが、ここで初めて旅のスピードが落ちました。夜でも室内温度が35度近くあるというもっとも暑い時期で、眠れないため1時間ごとに水シャワーを浴びるという初めて経験する暑さでした。

そんなインドでビザを取り、8月には中央アジアのウズベキスタンへ飛びます。自由旅行ができるようになったばかりで情報はほとんどなく、昔ながらの旧市街は過去にタイムトラベルしたような感じでした。次にお隣のトルクメニスタンに行き、アフガニスタンのビザを取得します(9.11前の話です)。手書きのビザをもらったのは、後にも先にもこれだけです。しかしそこから国境へ向かうわずか2、3日の間にタリバンによりアフガン政府が消滅。ビザは役に立たなくなり、カンダハール近くの国境で入国を断念します。あと1日早ければ入国していたので、どうなっていたことでしょう。

9月はイランにいました。経済制裁を受けていたので闇両替すると物価はとても安く、一か月で使ったお金はたったの130ドル。トルコに入った10月には秋の気配が漂っていました。イスタンブールに一ヶ月ぐらいいましたが、世界史マニアの私にはとても楽しい国でした。

ブルガリアのリラの僧院。雪が積もるほどの寒さが続き、ヨーロッパ北上を断念

ローマでクリスマスと年越しを

12月、日本を出て9か月目にようやくヨーロッパ入りです。バルカン半島のブルガリア、ルーマニアと進みましたが、あまりにも寒くそれ以上の北上を断念。行き先を変えて、NATOの空爆が終わってまもなくの旧ユーゴスラビア(現セルビア)入りし、アルバニアを経由してイタリアに渡ります。

ローマに到着したのは12月24日。さぞかしクリスマスでにぎわっているのかと思っていたら真逆で、ほとんどの商店が閉まり、交通機関も午後は運行停止。まるでゴーストタウンでした。仕方なく1時間ほど歩いてバチカンでの法王のミサを聞きに行きました。

ローマで年越しをした後、1996年の1月は3週間のチュニジアへのサイドトリップ。まだ日本語のガイドブックはありませんでしたが、この経験があったこともあり、4年後のチュニジアの日本語ガイドブックの初版作りに呼ばれます。

西アフリカのマリでは、ドゴン族の村々を回るトレッキングに。肉体的・精神的にも一番辛いころ

辛かった西アフリカの旅

2月からは西アフリカ2ヶ月の旅に出ました。セネガル、ガンビア、マリ、ブルキナファソ、ガーナ、コートジボワールの6か国です。ここで今までのアジアの旅はものすごく楽だったことに気づきました。西アフリカの国の多くはフランス語圏なのでコミュニケーションがうまく取れず、また治安も良くないこともあり、最初の2週間は緊張の連続でした。列車の中にイナゴの大群が飛び込んできたり、僻地の町で高熱を出したり、人間不信になったりとまあいろいろありましたが、なんとかまたローマに戻ってくることができしまた。

この西アフリカで私は、この旅が終わりに近づいてきていることを知りました。ギニア湾のビーチで海を眺めている時、好奇心がすり減ってほとんどないことに気がついたのです。旅を始めて最初の三か月は、すべてが刺激的で楽しいことだらけ。しかし半年も経てば旅が日常になります。ホテルを探してチェックイン、観光してまた移動の繰り返しで新鮮な感動はなくなります。旅に出て、ちょうど一年が経っていました。「もう帰ろう」と。

シリアのパルミラ遺跡。現在は内戦によりISによって爆破されてしまったという。残念だ

ただし実際にはそこから帰国までは、さらに半年かかりました。帰る前にここだけは見たいというところがけっこうあったのです。その後、ギリシャ、エジプト、ヨルダン、イスラエル、シリア、レバノン、トルコと中東を回り、9月にイスタンブールから帰国しました。今から思えば、中東が混乱する前のまだ平和な時代を見ることができて良かったと思います。

 

帰国して気がついたのはこのあてどない旅が自分を大きく変えていたことです。簡単に言うと、「たいていのことは何とかなる」と思えるようになったことでしょう。要は自信がついたのですね。それまでは未経験のものには手を出さないタイプでしたから。あとは「どこでもやっていける」という適応力でしょうか(笑)。そのおかげで、“フリーランスのライター”という仕事につき、現在に至ることを思えば、この“あてどない”と思えた旅が、自分の人生を変えた最大の“一生モノの旅”なのでしょう。仕事を辞めて旅に出ていなければ、今の自分はないのです。みなさんも旅に出れば、そんな旅に巡り合えるかもしれませんよ。