Apr.30.2022

/ 一生モノ

トルコに残る古代遺跡 ヒッタイト王国の都ハットゥシャ

大城塞といわれる宮殿跡。かつては日干しレンガでできた建物がそびえていた

トルコは古代遺跡の宝庫です。おそらく古代ギリシャ・ローマの都市遺跡に関しては、その本土よりも保存状態がいいかもしれません。しかしこの国にはそれよりもはるかに古い遺跡があります。今回紹介するのは、古代ギリシャ・ローマ時代よりも千年あまり昔に栄えたヒッタイト王国の都、ハットゥシャです。世界で初めて鉄器を使用した国として知られるヒッタイト。その都は日本の人気少女マンガの舞台にもなりました。私は2度その遺跡を訪れましたが、印象深かった最初の訪問の様子をつづってみます。

悪天候の中、到着したハットゥシャ

冬も近い11月初旬のアナトリア高原。カッパドキアを出た私はバスとタクシーを乗り継ぎ、目的地であるハットゥシャ遺跡を目指していました。今にも雨が降りそうな空の下、人気のない丘陵をいくつも越え、タクシーはようやく遺跡が遠目に見える道路沿いの安宿に着きました。宿があまりにも静まり返っていたので、ご主人に聞くと「シーズン、フィニッシュ!」との返事。他に客はいないようです。

荷を降ろしひとまず外に出ましたが、外は昼だというのに真っ暗です。今にも雨が降りそうな空と強い風、そして岩が露出する荒涼とした大地が目の前に広がっていました。谷を隔てた向かいにハットゥシャ遺跡はあるのですが、この悪天候。行くのは翌日にし、この日は反対方向にある小さな岩壁遺跡「ヤズルカヤ」を見に行くことにしました。

ヤズルカヤは、ヒッタイト王国末期に岩場を利用して造られた露天神殿です。建物は残っていませんが、岩壁に神々の行進などの浮き彫りが残っています。観光客が誰もいない中、ひとりで古代の浮き彫りの前に立っていると、どこからか古代の兵士が現れそうにも思え、少し怖いものさえ感じてきました。私は足早にその場を立ち去り、宿に戻りました。

ヤズルカヤの岩壁に彫られた神々の行進の浮き彫り。3500年前のものでかなり磨耗している

人類初の鉄器文明を築いたヒッタイトの盛衰

前17世紀にアナトリア高原(現在のトルコのアジア部分)に建国したヒッタイトは、人類初の鉄器文化を築きます。古王国時代にはメソポタミアに遠征し、バビロン第一王朝を滅ぼしたこともありますが、その後一時衰退。しかし新王国時代に勢いを取り戻してシリアへ進出し、前1285年頃にはシリアのカデシュでエジプトのラムセス2世の軍と戦います。これは軍事記録が残る世界最古の戦争です。双方が勝利を記録していますが、実際は引き分けかヒッタイト側の勝利だったようです。この戦いの後、世界最古といわれる国家間の和平協定が結ばれます。それを記録した粘土版がこの場所で発見されたことから、この遺跡がヒッタイトの都だったハットゥシャであることがわかりました。

繁栄を誇ったヒッタイト王国ですが、前1200年頃に滅亡します。そのころ地中海全域に進出していた謎の民族集団「海の民」の侵略が原因とされています。都は炎上し、その後、この地に都市が再建されることはありませんでした。

大神殿の入り口。遺跡の中ではもっとも低いエリアにある

ハットゥシャ遺跡へ入場

翌朝起きると、ひと晩待った甲斐があり空は晴れ渡っていました。宿から遺跡のあるボアズカレ村まで1kmほど歩き、ハットゥシャ遺跡に入場します。

古代から都市はたいてい地の利がいいところに築かれました。交通の便がいい海や川に面していたり、谷間にあったりするのですが、ハットゥシャはそれらとは少し違っていました。海からは300kmほど離れ、近くには大きな川もありません。標高約1000メートルの丘陵が続く丘のひとつです。私はなぜここに都が置かれたのか不思議な気がしました。

ハットゥシャ遺跡は、東西約1km、南北約2kmに渡り、丘の斜面に広がっています。地図では大したことがない距離でも実際には斜面になっており、登り下りには体力を使います。ぐるりと回ると5〜6kmはあり、徒歩でじっくり見るなら3〜4時間は必要でしょう。なので車を使って、ピンポイントで見どころだけを回る人もいます。

遺跡に入り、最初に見えてくるのが「大神殿」です。建材には日干しレンガが使われていたので、残っているのは石の土台の部分だけ。全部で200あるという部屋のいくつかには、貯蔵用の大きなかめが露出していました。人々から集めたものはまず神に奉納してから再分配していたので、神殿は貯蔵庫でもありました。

ハットゥシャから発掘されたエジプトとの和平協定を示す粘土板(イスタンブール考古学博物館収蔵)

都城を囲む門と宮殿跡

市街を囲む城壁には6つの門があり、現在はそのうちの3つが復元されています。順路の最初にあるのが「ライオン門」、次が遺跡で一番高い場所にある「スフィンクス門」、3つ目が「王の門」です。遺跡に残る門の浮き彫りはすべてレプリカで、本物は博物館に収められています。スフィンクス門の下には地下道があり、城門を通らずに外に出られるようになっていました。地下道の高さ3メートル、長さは70メートル。途中はわりと暗く、周りに誰もいなかったり、あるいは見知らぬ人と一緒になったりすると、通るのが不安になるかもしれません。

「ニシャンタシュ」は、ヒッタイト最後の王シュッピルリウマ2世の偉業を彫った碑文です。しかし。まもなく国が滅んでしまうかと知ると、見ていて物悲しいものを感じます。

最後が「大城塞」と名付けられた王宮です。これも基礎部分しか残っていません。しかし発掘された1万枚に及ぶ粘土板の中に、前述したラムセス2世との和平協定文がありました。この粘土板は、現在イスタンブールの考古学博物館に展示されています。

発掘が続くハットゥシャの大神殿。200に及ぶ部屋の多くは、穀物などの収蔵庫だった

ハットゥシャ遺跡は世界遺産に登録されるような歴史上重要な遺跡ですが、古すぎて見た目がかなり地味で、観光客も多くはありません。よほど遺跡好きでなければ楽しめないかなと思っていたら、意外にも日本の女性たちが訪れていることを後で知りました。実はハットゥシャは、単行本累計が1800万部という篠原千絵のベストセラー少女マンガ『天は赤い河のほとり』の舞台になった場所なのですよね。これは少女コミックに1995年から2002年にかけて連載された作品で、単行本で全28巻に及ぶ大河作品です。ネットを見ると、熱心なファンの方達がハットゥシャを訪れています。私は後から人に勧められて知って読みました。先に読んでから遺跡を訪れたら、また違う感想があったかもしれません。

20世紀に発見されるまで、その存在さえ疑われていたヒッタイト王国の都ハットゥシャ。悪天候の中向かいましたが、幸いにも遺跡を訪れた時は天候も回復しました。その数年後に訪れた時もいい天気でした。しかしなぜかこの遺跡を思い浮かべると、なぜかあの亡霊が出そうな荒涼とした風景のほうが浮かびます。その時写真を撮らなかったのが、今となっては残念なぐらいです。そんな旅の情景もまた、“一生モノの旅”かもしれません。

 

[DATA]

ハットゥシャ(ボアズカレ)へのアクセス
アンカラからはバスでスングルルの町へ行き(約3時間)、そこから乗り合いバンで40〜50分。カッパドキア方面からなら、カイセリからバスでヨズガットまで行き(約3時間半)、そこからタクシーで40分