Mar.31.2022

/ 一生モノ

大航海時代のきっかけとなった歴史の舞台 インドネシアの香料群島・テルナテ

テルナテの町を見下ろす。正面に見えるのはハルマヘラ島、右がティドレ島

私は大の世界史好きなので、歴史にまつわる場所が好きです。今は何も残っていないかもしれませんがその場に行き、数百年前のことを想像してみるのです。今回紹介する「香料群島」もそんな場所のひとつでした。15世紀、ヨーロッパ人が香辛料(スパイス)を直接買い付けようと大洋に乗り出したのが「大航海時代」の始まりですが、その動機になった島々がインドネシアにあります。そこへの旅は、私にとって正に“一生モノ”の旅でした。

島に生えるクローブのつぼみ

ヨーロッパで珍重された香辛料

香辛料は、ヨーロッパでは料理の味付け以上のものでした。中世には冬になる前に家畜が屠殺されて保存肉が作られましたが、その時にも臭い消しのために香辛料が使われました。また税金の代わりに、コショウの粒が収められた時代もあります。香辛料の多くはインドやアジアから仲介貿易で運ばれていたので、希少で高価なものでした。当時、香辛料の中でも価格が高いのは、クローブ(丁子)とナツメグ(肉荳蔲)、およびナツメグの一部のメースでした。これらは挽肉や肉の臭い消しによく用いられますが、当時のヨーロッパ人はどこで収穫されているのかは知りませんでした。

摘み取ったクローブのつぼみ。これを乾燥させる

大航海時代は香辛料の獲得から始まった

15世紀、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が完成に近づいてきたスペインとポルトガルは、アジアとの直接貿易を求めて遠洋航海に乗り出します。1488年、ポルトガルはアフリカの希望峰に達し、アジアへの道のりを確信します。一方スペインは西回りでアジアに向かう方法を探り、コロンブスが1492年にアメリカの西インド諸島に到達しました。1498年にはポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインド西海岸のカリカットに着き、ヨーロッパ人として初めてインド航路を発見。インド原産のコショウなどを持ち帰りました。しかしクローブやナツメグは、さらにその先の東南アジアから運ばれてきていることをここで知ります。

クローブは現在のインドネシアのマルク諸島のテルナテ島とその周辺、ナツメグはバンダ諸島でしか収穫できないという、非常に限定された香辛料でした。現地のイスラム系の領主(スルタン)が、原木の持ち出しを固く禁止しているからです。

天日で乾燥中のクローブ。最後にはおなじみの茶褐色に変色する

クローブの栽培を独占していたテルナテ

北マルク諸島の中心地となるテルナテ島は、直径10kmほどの卵形をした小さな火山島です。すぐ向かい2kmほどには、双子のようにほぼ同じ大きさと形をしたティドレ島があります。10kmほど東には、面積で言えば数十倍のハルマヘラ島があるのに、人々はこの2島に住んでいました。テルナテもティドレも火山島で農業には向いていませんでしたが、「クローブ」という特産物があったからです。そのためクローブを独占する島の王であるスルタンは、近隣の島々を支配するほどの大きな力を持っていました。ただしテルナテのスルタンには宿敵もいました。それが隣の島のティドレの王です。ティドレの王家もクローブの貿易で栄え、15世紀ごろにはテルナテと小競り合いのような戦争が何回も起きていました。ともに当時の人口は2000人程度。そんな頃にヨーロッパ船がやってくるのです。

西洋人、テルナテに到着す

1511年、ポルトガルは東南アジア貿易の拠点マラッカを占領します。さらに香辛料のルートを確保するため東へと船を送り、1512年、とうとうテルナテに到達しました。テルナテのスルタンはティドレに対抗するため、ポルトガル人を優遇し要塞を作ることも許可します。日本への鉄砲伝来の30年前のことです。一方、スペインは1519年にマゼランの艦隊が世界周航に出発。途中、マゼランはセブで原住民に殺されてしまいますが、生き残った乗組員が1521年にティドレに到着します(テルナテにはライバルのポルトガルがいたため寄港できず)。スペインはティドレ王の厚遇を受け、多くのクローブを積んで帰国します。本国でも隣同士のスペインとポルトガルですが、この香料群島でも隣同士の島でにらみ合っていたのです。

要塞から町とティドレ島を望む

私のテルナテへの最初の旅

現在、テルナテへはインドネシアのスラウェシ島北部の都市マナドから、飛行機、または船で行けます。私が初めてテルナテに渡ったのは1997年のこと。町はひとつしかなく、訪れる旅行者も西欧人がわずかにいる程度でした。町は海沿いに細長く、背後には火山のガマラマ山、海を見ると近くに隣のティドレ島とハルマヘラ島が見えました。

かつて高値で取引されたクローブも、世界各地で栽培されるようになると希少価値がなくなってしまいます。やがてテルナテは歴史の舞台から忘れられた島になっていきます。島の各所には、ポルトガルやオランダの要塞の廃墟が半ば朽ちながらも今も残っていましたが、そんなものも自分には知らないことばかりで、とにかくワクワクしました。

世界周航中のマゼランの艦隊がここに着いたことを示す碑文

テルナテへの2度目の旅

次に、テルナテを訪れたのはその10年後です。その間の1999年に、マルク諸島ではイスラム教徒とキリスト教徒の住民の衝突があり、混乱が続いていたからです。平和が戻り、久しぶりのテルナテでしたが大きくは変わってはいませんでした。観光局の人は「歴史ある島」として観光客を呼びたいようですが、なかなかここまで来る人は少ないでしょう。地方政府の意向もあり、観光名所には説明板などが設置されて多少整備が進んでいました。ただし修復された要塞を見ると、きれいにしすぎとも感じたのですが。

滞在中、縁があってティドレの王の末裔にお会いできました。現在はインドネシアの国会議員をしているそうです。逆に日本のことなども聞かれました。またティドレ島には、海に面してスペインが建てた要塞跡もありました。要塞は完全に朽ちていましたが、そばにマゼランの艦隊がここに来たという碑文が建てられていました。その前に立つと、歴史の教科書の中のできごとが、急にリアルに感じられました。かつて地球の反対側からここまでやってきた人たちがいました。しかしそんな人々の野望や努力も、時が経ってしまえば、すべて歴史の中に埋もれてしまうのです。変わらないのはこの景色だけ。私はこのひなびた島で、そんなことを考えていました。

大航海時代のきっかけとなった香辛料。かつてそれを求めて、未知の世界に乗り出した人々がいました。しかしその多くは途中で命を落とし、本国に戻ることはできませんでした。簡単に移動ができ、携帯で世界中の人と話せる現代では想像もつきませんが、今の世の中はそうした努力の上に成り立っているのです。歴史の舞台を訪ねる旅は、過去と現在が地続きであることを再確認し、今の自分や世界の成り立ちを知る旅でもあります。そしてそれは私にとって、大切な“一生モノ”の旅なのです。