Apr.06.2022
/ 一生モノ
タージ・マハルはなぜ美しく見えるのか?歴史や建築を知り、理解をより深める旅

「インドの観光地」というと、あなたは何を思い浮かべますか? たぶん多くの人があげるのがタージ・マハルでしょう。ドームを抱く、イスラム様式の白亜の霊廟です。あの建物の何が我々をひきつけるのでしょうか。今回は、北インドの古都アーグラーにあるタージ・マハルの魅力をお伝えします。

タージ・マハルは皇帝の愛妃の墓だった
16世紀、モンゴル系のバーブルが中央アジアからインドに本拠地を移し、建国したのがムガル帝国です。この帝国は、第3代皇帝アクバルの時代にアーグラーを都として大いに栄え、第6代皇帝アウラングゼーブの時代に領土が最大になります。タージ・マハルが築かれたのは、帝国の全盛期である第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代で、インド・イスラーム文化が最も栄えた時代でもありました。
1628年、シャー・ジャハーンは兄弟を血塗られた争いで殺し、皇帝につきます。彼には多くの妃や妾がいましたが、愛していたのは14人の子供をもうけたムムターズ・マハルでした。しかしシャー・ジャハーンが皇帝に即位した3年後に、彼女は産褥熱で亡くなってしまいます。シャー・ジャハーンは大いに嘆き悲み、1年後の1632年にムムターズを埋葬する巨大な霊廟の建設を始めます。これがタージ・マハルです。霊廟建設のためには、インドだけでなく周辺諸国からも優れた職人が集められました。白大理石で建てられたこの壮麗な霊廟が完成したのは、着工から20年近く経った1653年のことでした。
1657年、シャー・ジャハーンが病気になると、彼の4人の息子たちは帝位を狙って争い始めます。勝ち残った4男のアウラングゼーブは、病気から回復したシャー・ジャハーンの軍も破り、帝位を簒奪。父をアーグラー城に幽閉します。かつて兄弟達を殺して帝位についたシャー・ジャハーンですが、その報いが来たのかもしれません。1666年、シャー・ジャハーンは幽閉先のアーグラー城で亡くなりました。

タージ・マハルがもっとも美しく見えるのはどこ?
タージ・マハルには、東西と南の3つの門がありますが、私は南の正門からの入場をおすすめします。というのも、タージ・マハルは正門から入場した時に美しさが引き立つように設計されているからです。正門内に入ると最初は霊廟が出口いっぱいに見えますが、出口に近付くにつれ今度は逆に霊廟がどんどん遠ざかっていくように見えます。“じらし”のテクニックです。しかし正門を出ると急に視界が開け、四分庭園の奥にある白い霊廟の全体が目に飛び込んできます。

四分庭園はペルシャ(イラン)から伝わった庭園様式です。霊廟の手前にこの庭園を配した空間を作ることで、霊廟本体の美しさが際立つようになっているのです。たとえば庭園を歩き霊廟に近づいていくと、見慣れたはずの霊廟の見た目が変化していくのがわかります。これもテクニックで、近づくにつれて4本のミナレット(尖塔)が視界から消え、霊廟本体の重量感が増してくるのです。つまりそれまでミナレットが、霊廟に軽さと優雅さを作りだしていたのです。

左右対称が唯一崩れているのはどこ?
タージ・マハル本体である霊廟は、高さ7mの基壇の上にあります。近付くと遠くから見えていた大ドームが建物に隠れて見えにくくなり、霊廟がさらに重々しく見えてきます。霊廟の建物は正方形の四隅を切り落としたような、変則八角形。ぐるりと一周すると、どこから見ても同じ形に見えることがわかりますよ。
霊廟の中はとてもシンプルで、余計なものはありません。中央にあるのがムムターズ・マハルの棺で、その脇にあるのが皇帝シャー・ジャハーンの棺です。庭園から建物まで、見た目すべてが対称的に造られているタージ・マハルの世界ですが、ここだけが非対称になっています。アウラングゼーブは父シャー・ジャハーンの霊廟を造りませんでした。妃の棺の脇に添えられた棺を見ると、晩年の皇帝の哀れさと、息子の父に対する憎しみが感じられるでしょう。
タージ・マハルには、仕事を含め全部で7〜8回は行っています。最初は、ただ外観の素晴らしさに圧倒されるだけでしたが、何度も行くうちにその歴史や建築にも興味を惹かれるようになりました。調べてみると気づかなかったこともまだまだあり、知ればもう一度行って確かめたくなるんですよね。誰もが知っている有名観光地ですが、人を魅了するだけの理由がそこにはあるのです。建設当時の人々の美意識を想像するのも旅の楽しみです。それも“一生モノ”の旅でしょう。
[DATA]
タージ・マハル
URL( www.tajmahal.gov.in/ )
開:日の出〜日没 休:金曜
料金:1100ルピー( ADA料金含む )